2017年02月02日
戦争を知る事・・・近現代の戦争観
ですが、近現代における国家の平和観は、単純な戦争反対!ではなかったりすると思います。
もちろん、その国の憲法に不戦の条項があるから、戦争は起きない!という奇妙な考えを私は持ちません。
今回は、軍事史の中でも二大巨頭ともいわれるお二人を簡単に引用、説明しながら
近現代の国家における戦争観をお話しします。あくまで自論ですので
無知でどうしようもないね!とか滅茶苦茶言っているね!とか勉強不足だね!
とかのコメントは要らないですよ(笑)(笑)(笑)
さて、ウイキペディア他の資料によると、カール・フォン・クラウゼヴィッツという方は「戦争論」というとても難解で哲学な文章を遺して行っていらした方です。この軍事史の巨人は、1831年、上司のグナイゼナウ将軍ともども現・ポーランド西部ヴロツワフであっけなくコレラにより亡くなってしまいます。もっと長生きしていれば(1780年生なので享年51)、確実に歴史が変わったのかもしれません。
「戦争論」という書物がある事は多分知っている人が多いと思いますが、ちゃんと読んだ人は多分少ないと思います。(私も難解なので、一通りしか読んでいません)
ドイツの軍人が戦争の本を書いたと言えば、歴史を後ろ向きに見ている日本人はヒトラーやヒンデンブルク、二つの世界大戦やドイツ帝国を知っているので、どうも敬遠してしまうのかも知れません。ただ哲学を志した人は、ドイツの哲学者ヘーゲルの弁証法を通じてこの本を読んだことがあるかも知れませんね(とは言うものの、ヘーゲル哲学に影響されて書いたのではないだろう、と言う研究者もいます)
この「戦争論」はクラウゼヴィッツさんの死後、マリー夫人により三部に分けられ発行されたもので、本人の遺志とは関係がない出版でした。これは結構大きいことで、何故ならクラウゼヴィッツさんはこの「下書き」を基にちゃんと推敲したものを世に問いたかったらしいのです。
ですから、この論文は未完成と呼んで差し支えないわけで、どうも各所に重複した言い回しや、書きかけて突っ込んでいない部分が多く見られます。
研究者によると、クラウゼヴィッツさんが「完成」させているのは第一編だけで、残りの七編は未完成。その「覚え書」によると、「戦争論」はナポレオン戦争が終わった直後の1816年から書き始め、クラウゼヴィッツが陸軍士官学校の校長を務めた1818年から1827年までに第一から第六編までを書き、第七、八編の下書きを書いたそうで、その後、「戦争と政治の関係の書き込みが不十分」だとして手直しする、としていたところ、1830年、グナイゼナウの幕僚として現場に復帰したため筆を止め、そのまま亡くなってしまったようです。
この未完の大作はさっきも言いましたように哲学的色彩も垣間見え、また、ナポレオン戦争やフリードリヒ大王の七年戦争等の戦史も入り込んでいるため、取り方によっては非常に難解となり、いろんな解釈をされて来ました。
一・戦争は政治の延長にあって国の政治手段だから、戦争に勝つことだけじゃなく、戦後も考えて最初の目
的から外れてはいけないよ
二・戦争は「暴力を使おうと思う気持ち(憎悪や敵意)」「イチかバチかの勝負事(賭けや偶然の要素)」
「政治の一手段(あくまで政治に従属するもの)」の三つからなるよ。この三つが一体となって初めて戦争の
目的が達成されるんだ(戦争の三位一体)
三・戦争をする軍隊(指揮官)は戦闘に勝利するための作戦を考えるけれど、戦場には「摩擦」やら「戦場
の霧」と言われるモノがあって、作戦なんて指揮官の考えた通りに進まないんだ。これを人間が持つ強
い精神力と知性で乗り越えなくてはならない(「天才」の概念)
一は『シビリアンコントロール』
二は『「国民」「軍隊」「政府」の三つが戦争のトロイカ』
三は『戦争に勝つには強く賢い指揮官』
他にも、
「主力同士の決戦の場に多くの兵力を集めた方が勝者となり戦争に勝利するが、そのためには攻撃の限界点を知らなければならない」
「敵地に入ればなおさら摩擦や戦場の霧が増えるから防御側はそれを最大利用すべきだし、攻撃側は決戦の場へ兵力を集中する場合に摩擦に注意しなくてはならない」
「戦争には『絶対戦争』(全面総力殲滅戦)と『現実の戦争』(領土紛争などの限定戦)がある。絶対戦争は戦争後に勝者も疲弊させやり過ぎてしまうため、政治によってブレーキを掛けなくてはならない」
この「戦争論」、先に言ったように未完で哲学的要素もあるので、色々言われ、また、都合のよい解釈をされて誤解されたり、クラウゼヴィッツさんの評判が悪くなったりしています。
さてもう一人、イギリスの有名な軍事評論家のバジル・ヘンリー・リデル=ハートさんは、クラウゼヴィッツさんの言う「絶対戦争」(相手軍隊の殲滅を目的として徹底的に勝敗を求める戦争)理論が20世紀の『総力戦』(国家総動員による世界規模の全面戦争)を呼び、世界を危機に陥れた、と非難しています。
1895年にイギリス人牧師の息子としてパリに生まれ、成長すると英陸軍に入って第一次大戦で戦い、幾度か負傷、その総力戦と前線の無慈悲な兵士の消耗を見て「こんな惨い正面衝突をして国を弱らせなくとも目的達成のためにはいつでも『間接的なアプローチ』がある」という考えに至ります。
ハートさんは第一次大戦後、陸軍の教育担当将校として「歩兵操典」などを著しますが、やがて陸軍上層部などと衝突してクビになります。
民間に降りると軍事評論家として「歴史上の偉大な戦闘」や「第一次大戦」などの著作で有名となります。
ここで、ヒトラーのナチス勃興にぶつかりますが、リデル=ハートさんは自らの『間接アプローチ理論』から「直接対決~総力戦」を避け「経済封鎖」や「集団的自衛権の行使」による「封じ込めと抑止」を訴え、それは時のイギリス政府の対応に即していたので歓迎されますが、第二次大戦発生と共に評判は地に堕ちてしまいました。戦中もチャーチルを批判したりして睨まれます。「正面から総力戦を行えば、例え勝者となっても経済は崩壊し、植民地を失い、イギリスは衰退して世界の一線から退くだろう。戦争内閣(ウォー・キャビネット)は戦後の安泰や繁栄を考えていない。ドイツを滅亡させる絶対戦争はヨーロッパに力の真空地帯を産み出してそこへソ連が乗り出せば再び緊張と対決が起きるだろう」大戦終了後、冷戦構造となってイギリスは経済も疲弊して没落、見る影もなくなったことでリデル=ハートさんの「予言」が見事的中、彼の「間接アプローチ理論」は『戦略論・間接アプローチ』として結実するのです。
こうして見ると、クラウゼヴィッツさんの「戦争論」も、それを批判的に見ていたリデル=ハートさんの「戦略論」も、時と場所で誤った見方をされ、実は紙一重で似ていたことが分かります。
クラウゼヴィッツさんは「絶対戦争」=総力戦が必要だとか、戦争は敵を殲滅することだ、等とは言っていないのに、いつの間にか「絶対戦争」理論にされていました。そこには明確に「政治関与」が言われているのに、軍隊に都合のよい部分ばかりが強調されたように思われます。軍人さんは、総力戦で国の運命を左右するまるで古代中国やローマかカルタゴのような軍人の姿に憧れてしまい、政治を無視する道を進みます。
リデル=ハートさんも「絶対戦争」は何も解決せず勝者なき世界を生むとして「間接アプローチ」を唱えました。しかし、これは「弱腰」とされてしまいます。
冷戦と核の登場でリデル=ハート式が有効とされ、欧米戦略の基礎となって行くのです。どちらも、戦争を抑制する政治の力を第一番に考えている、と言う点を忘れてはいけないと思うのです。
そして平和を考えるなら戦争を知る、ということにも共通していることなんです。
「戦争は政治目的の達成のために起きることを考えるのなら、戦争の指導は、最初の動機(目的)を第一に最大に考えなくてはならない」(クラウゼヴィッツ・戦争論)
「平和愛好国家は危険だ。なぜなら一度駆り立てられたら極端に走りやすいからだ。戦争を好む国は、相手が征服するには厄介な力を持っていることを知るなら、直ぐにでも対決を止めるだろう」(リデル=ハート・戦略論)
「平和を欲するなら戦争を知りなさい」(リデル=ハート)
現代における現実的な平和観とは、このような考えであると私は思います。
2017年01月11日
靖国神社と富士宮浅間大社
静岡県において幕末維新の有名人と言えば“清水の次郎長”くらいしか知らなかった私でした。富士市の次郎長開墾など善行やドラマの影響が大きかったのだと思います。
…大河ドラマの主人公なんかではなく“やくざ”が地元有名人か?…幕末偉人は静岡県にはおらん!
程度の感想だったのです。
しかしながら、幼い頃より慣れ親しんだ“富士山本宮浅間大社”にある碑が靖国神社と深い関わりがあるとは、露ほども知りませんでした。
もちろん、その碑の存在は知ってはいました。ですがさほど関心を持たなくなった訳があります。
それは私が5歳頃に祖父に連れられて湧玉池(富士山湧水で有名です)で遊んでいた時に、
大きな碑を見て祖父に尋ねたことがありました。
『あの大きなお墓みたいなのは、なに?』
祖父は
『お墓でなくてな…う~ん…なにかの記念じゃ!気にすることは無い』
と言われ、それきり祖父は答えず私も聞いてはいけない事と感じてしまい、
その後全く関心を寄せることは無くなりました。
注意深く関心をよせたのはある事がきっかけでしたが、ここでは長くなるので省きます。
その碑とは『駿州赤心隊之碑』であります。
勤王の志を持つ神官らによって、慶応4年2月25日結成され、隊長は富士宮浅間大社
宮司であった富士亦八郎重本です。
富士氏とはウィキペディアによると…
“富士家の初代と伝わる豊麿は、和邇部氏の長の17代目であり、
駿河国富士郡の郡司であった和邇部宿禰の子孫である和邇部宿禰宗人の子とされ、
富士郡大領となったことを機に浅間神社の神主となったと伝わる。
それにより富士姓を名乗ったことが富士氏の発祥とされ、富士郡を支配する地位にあった。
富士直時の書状では、少なくとも14世紀には既に、富士郡富士上方(現在の富士宮市一帯)を支配する
氏族として存在していたことが分かる。
他富士上方の社寺に対して諸役免除を行うなど、富士郡領主として存在し続けた。“とされています。
さて、
『行けば官軍 帰りは仏 どうせ 会津にゃ かなわない』
と佐幕的な地元に馬鹿にされた駿州赤心隊は、遠州報国隊らと共に西郷隆盛を参謀とする大総督軍に随行、江戸城各門の守備や彰義隊の討伐などに活躍しました。その後、東北地方の平定が落ち着いいた頃、赤心・報告隊の大部分は明治政府より感状をもらい、京都に凱旋する大総督宮を警護してそれぞれ駿河・遠江に帰還しました。
さて、彼らが戻った駿河ですが、そこは、移封された徳川家と旧幕臣たちが移住してきたばかりです。旧幕臣の中には倒幕に率先して参加した彼らを快く思わない者も多く、ついに明治元年12月22日草薙神社神主の暗殺未遂事件、その前日の御穂神社神主殺害事件が起こります。また明治3年7月には富士大宮司家 居館 芙蓉館も放火に遭います。
そこで、富士亦八郎重本たちは兵部大輔(ひょうぶだいふ)大村益次郎(往年の大河ドラマ“花神”のモデル)に相談します。大村益次郎は国の為に戦死した兵士を天皇自ら慰霊・顕彰することが重要だと考えていましたので、上野東叡山寛永寺領の九段を没収し『東京招魂社』を建設し、赤心・報国各隊の神職に移住奉仕する事を提案しました。結局のところ、招魂社に62名が社司任命されます。
そして、後の明治12年東京招魂社は“靖国神社”と改称し現在に至るのです。
富士宮浅間大社の歴史上長きにわたり、宮司として仕えてきた富士氏は、富士亦八郎重本をもって最後となりましたが、靖国神社の初代神官としてその名を残しております。
前述の祖父が良い答えをしなかったのは、源頼朝から縁が続き、後に徳川直轄地である佐幕的な土地柄故、当時の浅間神社神官に好感情をもっていなかったのでは、と今では推測するのみであります。(渡邉家は源氏系譜)
“駿州赤心隊の碑”には隊員の名前が全て彫られています。
富士宮浅間大社にお越しの折には、東側湧玉池のほとりにひっそりと佇んでおります石碑を観ながら、往時の方々の想いと靖国神社への成り立ちに思いを馳せてみて下さい

2016年11月22日
戦争・平和・人権を題材にした小中学生の作文



2016年10月03日
仮想戦場



Wolfenstein:Enemy Territory(ウルフェンシュタイン エネミーテリトリー)とはマルチプレイ専用のフリーソフトとしてリリースされたFPS症候群患者のためのソフトウェア。 本来は、RtCWの拡張パックとして開発が進んでいたが開発を中止。何故中止になったかは大人の事情によります。
Soldier / Soldat(SOL/ モーヲタ)
重火器の扱いを得意とする。故にメインヱポンは基本的に重火器が推奨される。
ちなみに使用武器により「パンツ魔」「放火魔」「モーヲタ」など散々な呼ばれ方をする事になる
Medic(Med / メディ子)
注射を得意とする。夜のお注射とか言ってはいけない。
Engineer(ENG / 園児)
ペンチの扱いを得意とする。ペンチ一本で橋や階段の作成、ダイナマイトの設置/解除、対人地雷の設置、戦車の修理までこなす。 どんだけ器用なんだよ。
Field Ops(FO / aFo)
双眼鏡の扱いを得意とする。覗き魔。ミラーマンではない。もしくは弾プロ(弾配りのプロ)。
Covert Ops(CO / 芋虫)
バルサンの扱いと敵兵のパンツを脱がせるのを得意とする。芋虫の物真似をするのがとても上手い。狙撃したり弁当に見せかけた爆発物で何かを壊したり変装してチームメイトに誤射されたりするのが主な役割である。
以上のような、役割とウエポンを選び、1歩兵として作戦従事します。味方を撃ってはいけません。度重なると協議の上、追い出されます(;'∀')
スキルが上がると階級も上がります。現在私は大尉であります。
このゲームは瞬間の判断と役割完遂が瞬時に求められます。頭の体操には中々刺激を与えてくれます。もし、実戦でしたら、最初の敵遭遇で瞬殺されているかもしれません( ´艸`)
ゲームの世界で良かった・・・平和です。
2016年09月01日
『戦争と平和』・・・ロシア










2016年08月16日
富士市後援の『平和の為の戦争展』について
戦争の悲惨さと平和の尊さを学ぼう!という事なのですが・・・
という展示内容は昨年とほぼ変わらず、日本軍は集団殺人鬼にして強姦魔であり、沖縄は本土の犠牲になり、原爆と原発は同じであり、憲法改正は悪であって現政権の批判へ・・・の統一感とれた展示です。さすが、共産党。ブレていない


大東亜戦争に至った理由は、”意見が分かれているところである”などと誤魔化し、ハルノート、ABCD包囲網など微塵の記述もありません。明治以降10年ごとに戦争をしかけた極悪国家だとのたもうております。
昨年との違いは、手書きが印刷文字に、思想真っ赤な老人は少なく、対象年齢を下げようと企画しているらしいです。
私は昨年、市議会議員等のお力を借りて、このような戦没者及びご遺族にとって、理不尽極まりなく、屈辱的な企画展を廃止させようと一時は考えました。
し、か、し・・・実に残念ながら自治労=核兵器廃絶平和富士市民の会=共産党の構図により、富士市の予算を取り続け早29年!
また、毎年開会に当たっては富士市市長がご挨拶するのが慣例となっているのですから、まったくもって、なにをかいわんやでございます。
アンケートに答えましたが、用意された汚い鉛筆は使わず、自分の万年筆で書きましたが、最後は怒りで字が震えました。