2017年01月23日
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2017年01月11日
靖国神社と富士宮浅間大社
静岡県において幕末維新の有名人と言えば“清水の次郎長”くらいしか知らなかった私でした。富士市の次郎長開墾など善行やドラマの影響が大きかったのだと思います。
…大河ドラマの主人公なんかではなく“やくざ”が地元有名人か?…幕末偉人は静岡県にはおらん!
程度の感想だったのです。
しかしながら、幼い頃より慣れ親しんだ“富士山本宮浅間大社”にある碑が靖国神社と深い関わりがあるとは、露ほども知りませんでした。
もちろん、その碑の存在は知ってはいました。ですがさほど関心を持たなくなった訳があります。
それは私が5歳頃に祖父に連れられて湧玉池(富士山湧水で有名です)で遊んでいた時に、
大きな碑を見て祖父に尋ねたことがありました。
『あの大きなお墓みたいなのは、なに?』
祖父は
『お墓でなくてな…う~ん…なにかの記念じゃ!気にすることは無い』
と言われ、それきり祖父は答えず私も聞いてはいけない事と感じてしまい、
その後全く関心を寄せることは無くなりました。
注意深く関心をよせたのはある事がきっかけでしたが、ここでは長くなるので省きます。
その碑とは『駿州赤心隊之碑』であります。
勤王の志を持つ神官らによって、慶応4年2月25日結成され、隊長は富士宮浅間大社
宮司であった富士亦八郎重本です。
富士氏とはウィキペディアによると…
“富士家の初代と伝わる豊麿は、和邇部氏の長の17代目であり、
駿河国富士郡の郡司であった和邇部宿禰の子孫である和邇部宿禰宗人の子とされ、
富士郡大領となったことを機に浅間神社の神主となったと伝わる。
それにより富士姓を名乗ったことが富士氏の発祥とされ、富士郡を支配する地位にあった。
富士直時の書状では、少なくとも14世紀には既に、富士郡富士上方(現在の富士宮市一帯)を支配する
氏族として存在していたことが分かる。
他富士上方の社寺に対して諸役免除を行うなど、富士郡領主として存在し続けた。“とされています。
さて、
『行けば官軍 帰りは仏 どうせ 会津にゃ かなわない』
と佐幕的な地元に馬鹿にされた駿州赤心隊は、遠州報国隊らと共に西郷隆盛を参謀とする大総督軍に随行、江戸城各門の守備や彰義隊の討伐などに活躍しました。その後、東北地方の平定が落ち着いいた頃、赤心・報告隊の大部分は明治政府より感状をもらい、京都に凱旋する大総督宮を警護してそれぞれ駿河・遠江に帰還しました。
さて、彼らが戻った駿河ですが、そこは、移封された徳川家と旧幕臣たちが移住してきたばかりです。旧幕臣の中には倒幕に率先して参加した彼らを快く思わない者も多く、ついに明治元年12月22日草薙神社神主の暗殺未遂事件、その前日の御穂神社神主殺害事件が起こります。また明治3年7月には富士大宮司家 居館 芙蓉館も放火に遭います。
そこで、富士亦八郎重本たちは兵部大輔(ひょうぶだいふ)大村益次郎(往年の大河ドラマ“花神”のモデル)に相談します。大村益次郎は国の為に戦死した兵士を天皇自ら慰霊・顕彰することが重要だと考えていましたので、上野東叡山寛永寺領の九段を没収し『東京招魂社』を建設し、赤心・報国各隊の神職に移住奉仕する事を提案しました。結局のところ、招魂社に62名が社司任命されます。
そして、後の明治12年東京招魂社は“靖国神社”と改称し現在に至るのです。
富士宮浅間大社の歴史上長きにわたり、宮司として仕えてきた富士氏は、富士亦八郎重本をもって最後となりましたが、靖国神社の初代神官としてその名を残しております。
前述の祖父が良い答えをしなかったのは、源頼朝から縁が続き、後に徳川直轄地である佐幕的な土地柄故、当時の浅間神社神官に好感情をもっていなかったのでは、と今では推測するのみであります。(渡邉家は源氏系譜)
“駿州赤心隊の碑”には隊員の名前が全て彫られています。
富士宮浅間大社にお越しの折には、東側湧玉池のほとりにひっそりと佇んでおります石碑を観ながら、往時の方々の想いと靖国神社への成り立ちに思いを馳せてみて下さい
